幼少の頃のことで覚えているのが、近所の子どもたちを連れ立ってよくやっていた「探検ゲーム」。これは、家を出発して、とにかく行ったことのないところをめざして何度も道を曲がり、わざと迷い、そこからはたして家に戻れるかに挑戦するものでしたが、幸いにして一度も警察の厄介になることはありませんでした。
なぜ、そんな遊びを考え出してやったのかよくわかりませんが、昔から未知の世界に対する憧れとアドベンチャー精神が強かったのかもしれません。ただ、他の子どもたちも巻き込んでいたので、そのことが知れた時には親にこっぴどく叱られましたが。。。
小学生になった頃から、これまたなぜか家の間取りに対する興味が芽生え、友達の家に遊びに行くと、「悪いけど、家の中見せて」と言ってその子の家の中を歩き回り、あとで家に帰ってからその家の間取りを画用紙に描くという変な子どもでした。
そこから自然に「将来は建築家になりたい」という夢を抱くようになったのですが、残念ながら理数系の成績が極端に悪く、大学進学の時点でその夢はあきらめざるを得ませんでした。でも、今振り返ってみると、自分は何かを「デザイン」することに興味があったのであって、それは必ずしも家である必要はなかったのかもしれません。
私は投げるのも箸を持つのも右手を使いますが、なぜか物心ついた時から字を書く時だけは左手を使っていました。その逆の人、つまり本来は左利きなんだけど、書くのだけ右という人はたくさんいますが、自分と同じパターンの人にはこれまで出会ったことがありません。
苦労したのは習字の時。小学校5年の時に通信簿で最低点をとったことが悔しくて、右手で猛特訓し、翌年のコンクールで金賞を受賞したということがありました。今でも、この負けず嫌いな性格は健在です。
小学校3年生の時、父親の転勤でイギリスのロンドンに引っ越しました。当時、全日制の日本人学校はなく、近所の普通の学校に通ったのですが、そこでかなり陰湿な人種差別を経験しました。たとえば、同じクラスの男の子たちが数人、家の前にやってきて、「このジャップ野郎め!」みたいなことを叫びながら、石を投げて窓ガラスを割っていくというようなこともありました。
この経験は大人になるまで心の傷となって自分の中に残りましたが、逆にその経験があったからこそ異文化の人たちと対等の立場でコミュニケーションをとることに対する強い想いが自分の中に育まれたと思っています。
イギリスはサッカーが盛んな国だったこともあり、子どもの頃は暇さえあればボールを蹴っ飛ばしているサッカー少年でした。
その後高校まではずっとサッカー部に所属していましたが、大学では一転してボート部に入り、シングルスカルという一人乗りの舟を漕いでいました。ずっとサッカーという団体競技をやってきたので、一度くらいは個人競技をやってみたかったというのがその理由です。ボートはエイトと呼ばれる8人乗りの競技が花形だったので、シングルスカルはあまり注目されず、練習は基本的に1人、メニューも自分で考えるというような状況でした。
つまり、自由である代わりに、結果の責任は自分で負うしかなく、その経験が自分の中に自立心を植えつけたように思います。
大学3年の時、1年間休学し、ワーキングホリデーという制度を使ってオーストラリアに行きました。もともとサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたにもかかわらず、このままではそれしか選択肢がなくなってしまうことに焦りを感じ、どうせなら単なるアルバイトではなく、自分の生活をかけて働くことで何かが見えてくるのではないかと考えたのです。
日本人観光客向けのツアーガイドやレストランのウエイターなど、様々な仕事を体験しましたが、結局これという仕事は見つかりませんでした。
しかし、異国の地で基本的には自分ひとりの力で生活できたことが、ものすごく大きな自信になりました。そして、将来どんな仕事をするにせよ、オーストラリアにいる時にずっと感じていた「心地よい緊張感」を感じられるような仕事をしたい、ということだけは深く心に刻まれました。
大学3年生の冬、友人に誘われてたまたま参加したアルバイトがきっかけで、その後もちょくちょくリクルートに出入りするようになりました。
先にも書いたように、私はサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたわけですが、リクルートは自分がイメージしていた会社とだいぶ雰囲気が異なり、そこで働く人たちもおよそサラリーマンらしくない人たちがたくさんいました。
同じサラリーマンになるなら、もっとも会社らしくない会社に入ろうと思い、周りからはさんざん反対されましたが、リクルートに就職することに決めました。入社した翌年にかの有名なリクルート事件が起こったり、その何年後かにダイエーに買収されたりといろいろなことがありましたが、自分が決めたことなので後悔するようなことは一度もありませんでした。