Profile_榎本英剛って、どんな人?

  • 将来どんな仕事をするにせよ、
  • ワーキングホリデーで経験した「心地よい緊張感」
  • を感じられるような仕事をしたい、
  • ということだけは深く心に刻まれていました。
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榎本英剛(えのもとひでたけ)プロフィール

1964年
兵庫県宝塚市生まれ。2人兄弟の長男にして、射手座のB型。父親の転勤により、生後半年で横浜市鶴見に引っ越し、その後は基本的に関東圏で育つ。
1972年
父親の転勤でイギリスのロンドンに引っ越し、4年半を過ごす。
1985年
1年間大学を休学し、ワーキングホリデーという制度を使ってオーストラリアで働く。
1988年
一橋大学法学部を卒業後、株式会社リクルートに入社。人事・営業・企画・研修開発などの業務を経験。
1994年
リクルートを退職。米国サンフランシスコにあるCIIS(California Institute of Integral Studies)に留学し、組織開発・変容学を専攻(1997年に修士号を取得)。
1995年
CTI(The Coaches Training Institute)のコーアクティブ・コーチングに出会い、翌年CPCC(Certified Professional Co-Active Coach)資格を取得。
1998年
初の翻訳本となる『バーチャル・チーム』がダイヤモンド社から出版される。
1999年
初の著作となる『部下を伸ばすコーチング』がPHP研究所から出版される。
2000年
株式会社CTIジャパンを設立し、代表に就任。
2002年
共訳本『コーチング・バイブル』第1版が東洋経済新報社から出版される。
妻・真穂と結婚、ピースボートに乗船。
2003年
CTIジャパンの代表を退任。
2004年
長女・湊(みなと)が誕生。
2005年
英国北部スコットランドにあるフィンドホーンというエコビレッジに家族とともに移住。
2007年
トランジション・タウンおよびチェンジ・ザ・ドリームという2つの世界的な市民運動に出会う。
2008年
日本に帰国し、トランジション・ジャパンおよびセブン・ジェネレーションズを設立、それぞれ初代の代表に就任。
2010年
CEOとしてCTIジャパンの経営に復帰。
2012年
CTIジャパンのCEOを退任。
よく生きる研究所を設立。
2014年
2作目『本当の仕事』が日本能率協会マネジメントセンターから出版される。
2015年
CTIジャパンおよびその親会社である株式会社ウエイクアップから完全に卒業する。
翻訳協力した『アクティブ・ホープ』が春秋社から出版される。
2017年
中国・上海に約10ヶ月間滞在し、中国語を学ぶとともに中国での活動基盤を拡げる。
3作目『本当の自分を生きる』が春秋社から出版される。
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探検ゲームで磨かれた
アドベンチャー精神

幼少の頃のことで覚えているのが、近所の子どもたちを連れ立ってよくやっていた「探検ゲーム」。これは、家を出発して、とにかく行ったことのないところをめざして何度も道を曲がり、わざと迷い、そこからはたして家に戻れるかに挑戦するものでしたが、幸いにして一度も警察の厄介になることはありませんでした。

なぜ、そんな遊びを考え出してやったのかよくわかりませんが、昔から未知の世界に対する憧れとアドベンチャー精神が強かったのかもしれません。ただ、他の子どもたちも巻き込んでいたので、そのことが知れた時には親にこっぴどく叱られましたが。。。

横浜の自宅にて(0歳)

建築家になる夢と
デザインへの興味

小学生になった頃から、これまたなぜか家の間取りに対する興味が芽生え、友達の家に遊びに行くと、「悪いけど、家の中見せて」と言ってその子の家の中を歩き回り、あとで家に帰ってからその家の間取りを画用紙に描くという変な子どもでした。

そこから自然に「将来は建築家になりたい」という夢を抱くようになったのですが、残念ながら理数系の成績が極端に悪く、大学進学の時点でその夢はあきらめざるを得ませんでした。でも、今振り返ってみると、自分は何かを「デザイン」することに興味があったのであって、それは必ずしも家である必要はなかったのかもしれません。

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左利きと負けず嫌い

私は投げるのも箸を持つのも右手を使いますが、なぜか物心ついた時から字を書く時だけは左手を使っていました。その逆の人、つまり本来は左利きなんだけど、書くのだけ右という人はたくさんいますが、自分と同じパターンの人にはこれまで出会ったことがありません。

苦労したのは習字の時。小学校5年の時に通信簿で最低点をとったことが悔しくて、右手で猛特訓し、翌年のコンクールで金賞を受賞したということがありました。今でも、この負けず嫌いな性格は健在です。

人種差別によって育まれた
異文化コミュニケーションへの想い

小学校3年生の時、父親の転勤でイギリスのロンドンに引っ越しました。当時、全日制の日本人学校はなく、近所の普通の学校に通ったのですが、そこでかなり陰湿な人種差別を経験しました。たとえば、同じクラスの男の子たちが数人、家の前にやってきて、「このジャップ野郎め!」みたいなことを叫びながら、石を投げて窓ガラスを割っていくというようなこともありました。

この経験は大人になるまで心の傷となって自分の中に残りましたが、逆にその経験があったからこそ異文化の人たちと対等の立場でコミュニケーションをとることに対する強い想いが自分の中に育まれたと思っています。

ロンドン近郊の海水浴場で、弟と

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サッカー、ボート、そして自立心

イギリスはサッカーが盛んな国だったこともあり、子どもの頃は暇さえあればボールを蹴っ飛ばしているサッカー少年でした。

その後高校まではずっとサッカー部に所属していましたが、大学では一転してボート部に入り、シングルスカルという一人乗りの舟を漕いでいました。ずっとサッカーという団体競技をやってきたので、一度くらいは個人競技をやってみたかったというのがその理由です。ボートはエイトと呼ばれる8人乗りの競技が花形だったので、シングルスカルはあまり注目されず、練習は基本的に1人、メニューも自分で考えるというような状況でした。

つまり、自由である代わりに、結果の責任は自分で負うしかなく、その経験が自分の中に自立心を植えつけたように思います。

一橋大学ボート部時代

ワーキングホリデーと
心地よい緊張感

大学3年の時、1年間休学し、ワーキングホリデーという制度を使ってオーストラリアに行きました。もともとサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたにもかかわらず、このままではそれしか選択肢がなくなってしまうことに焦りを感じ、どうせなら単なるアルバイトではなく、自分の生活をかけて働くことで何かが見えてくるのではないかと考えたのです。

日本人観光客向けのツアーガイドやレストランのウエイターなど、様々な仕事を体験しましたが、結局これという仕事は見つかりませんでした。

しかし、異国の地で基本的には自分ひとりの力で生活できたことが、ものすごく大きな自信になりました。そして、将来どんな仕事をするにせよ、オーストラリアにいる時にずっと感じていた「心地よい緊張感」を感じられるような仕事をしたい、ということだけは深く心に刻まれました。

ツアーガイドの仕事で、バスドライバーのゴードンと

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もっとも会社らしくない会社、
リクルートへの入社

大学3年生の冬、友人に誘われてたまたま参加したアルバイトがきっかけで、その後もちょくちょくリクルートに出入りするようになりました。

先にも書いたように、私はサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたわけですが、リクルートは自分がイメージしていた会社とだいぶ雰囲気が異なり、そこで働く人たちもおよそサラリーマンらしくない人たちがたくさんいました。

同じサラリーマンになるなら、もっとも会社らしくない会社に入ろうと思い、周りからはさんざん反対されましたが、リクルートに就職することに決めました。入社した翌年にかの有名なリクルート事件が起こったり、その何年後かにダイエーに買収されたりといろいろなことがありましたが、自分が決めたことなので後悔するようなことは一度もありませんでした。

リクルート営業マン時代

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Activity_これまでの活動